拙論

石器検証の方法 2001年7月11日
以下の文章は、以前アップされていたものだが、ここに再掲載する。なお文章の一部を校正したが大意に変更はない。

  石器検証の方法

検証の方法とその順序
 ねつぞう発覚後、様々な検証論が展開しているものの、今ひとつ議論の方向が明瞭でないように思う。そこで、検証の方法について、その特性を論じながら石器検証の方法について述べてみたい。
 これまでの議論を整理すると、石器検証の方法には3種類の方法があるように思われる。
ひとつは「検証発掘」である。もうひとつは「理化学的分析」。最後に「石器の型式学的分析」である。これらの方法はそれぞれの特徴をもつゆえに、それらの方法を総合的に用いるためには方法の特性をいかした「体系」が必要であると筆者は考えている。
 わたしの意見は、まず明らかにねつ造された石器を対象にして、型式学的方法と理化学的分析が行われるべきである。これによって、ねつ造の対象となった石器とは如何なる石器であるかを知ることができる。次に、ねつ造の発覚した石器以外の石器について、上記と同じ分析を繰り返すことである。こうした石器そのものの分析によって、ねつ造の石器とはどのような石器であるのか、そして、ねつ造石器とは異なる石器とはどのような石器なのかが明らかになるはずである。 その後に、今度は同じ遺跡を再発掘調査をして、どのような石器が、どのように出土するかを確かめなくてはならない。この順番を取り違えると証拠が消え、永久に取り返しのつかないことになる可能性がある。そこで、こうした主旨で、それぞれの検証の方法について論じてみたい

検証発掘
 検証発掘は「一斗内松葉山遺跡」で行われ、そこにこの方法の問題点は集約された。一斗内松葉山遺跡は東北旧石器文化研究所が、70万年以前の地層から石器を発掘した遺跡で、昨年の11月以前では日本国内最古の遺跡として著名であった。この地点で石器を初めて発見したのは、藤村新一氏であり、それがゆえに「ねつ造遺跡の検証」という目的で発掘調査が行われた。
 発掘調査の結果では、調査で実際に地層を掘っている期間中に石器は出土しなかった。そこで、石器が出土しないという事実には、一斗内松葉山遺跡がねつ造遺跡ではないとは言い切れない、という結論がだされた。さらに、発掘区域が限られているため、発掘は不十分だという意見も新聞に掲載された。前者は慎重論、後者は最も好意的な意見である。
しかし、埋め戻しの最中に石器2点が発見され、その出土状況を詳細に観察した調査団は、石器を埋め込んだ痕跡があることを発表し、ここに一斗内松葉山遺跡のねつ造はほぼ確定した。
以上の経緯は、発掘調査による検証の問題点を明確に示している。
つまり、発掘で石器が出土しなかった場合、慎重論は「灰色」であり、さらに好意的に考えれば「発掘で当たらなかったのは、別に理由があるからだ」という意見がみられることである。これらの意見は今後の検証発掘でも必ずでてくるに違いない。つまり石器が出土しないことは、ねつ造の証拠にはならない、というのが現時点での識者の見解である。
次に石器が出土した場合、一斗内松葉山遺跡ではねつ造の痕跡が調査で発見された。これについては、有る意味で幸運であったといわねばならないだろう。その理由を次にのべることにする。
 一斗内松葉山遺跡の事例を比較すると、上手に埋め込んだ場合は、その痕跡は認識できない可能性もあるのではないかと推測される。
 ゆえに、発掘調査の検証の場合、明らかにねつ造の痕跡が見いだせた状況証拠が発見されたときにのみ、それはねつ造と言えるのであって、この痕跡が見つからないで石器が発見された場合、最も好意的な意見が優先して決着のつく可能性も考えられよう。
 発掘調査も必要であるが、それ以前に行われなければならないのは、どのような石器が藤村氏によって埋められたのかを知る必要があろう。それを知らずして発掘調査の出土状況だけを優先させることは、貴重な証拠が消え去る可能性もあることを指摘しておきたい。

理化学的な検証
 地層の年代分析とは異なり、石器そのものの理化学的分析は主に3種類にわかれるようである。

 ひとつは、純粋な理化学分析であり、これまでに3つの分析が行われた。
 まず、熱を受けた石器について、熱を受けた時点の年代を導く方法、次に石器に付着している物理・化学的な痕跡(化学物質や傷)の分析である。前者は被熱の古さを測り、後者は後からでないと付かない痕跡を発見することでねつ造の証明とする方法である。
 上高森遺跡の焼けている石器は大阪大学のチームによって電子スピン共鳴法分析が行われ50万年前という結論がだされている。これを素直に信じれば上高森遺跡の一部はねつ造であったが、その他は真実であったことになる。しかし、この結論はにわかには信じがたい。すべての被熱資料に同じ分析をする必要がある。ともあれ、大坂大学チームの分析では、前期旧石器として好い結果がでているらしい。
 次に、2001年の日本考古学協会では、広島大学の難波紘二氏が馬場壇A遺跡の脂肪酸分析を再検討し、馬場壇A遺跡の石器から検出された脂肪酸は、非常に新しいものであったことを指摘した。これも積極的に用いればねつ造の証拠として採用されなくてはならないと難波紘二氏が述べている。
 
 最後に、二重パティナや新しい傷(発掘調査時につく傷や後世の耕作の傷など)、そして褐鉄鋼付着の分析は、視覚的にもわかりやすく非常に有効である。「科学」の菊池強一氏の論文が秀作で、こうした綿密な分析が継続されることが期待され、後続が待たれている。菊池氏の分析では、座散乱木遺跡にも新しい傷の石器が見られると言う。この分析には低倍率の金属顕微鏡を用いることが最も有効な手段であろう。

使用痕分析による検証
 今回の検証で、考古学的に特に重要な分析は、高倍率の金属顕微鏡で石器表面を観察することである。先にも述べたが、群馬県の下川田入沢遺跡の石器の一部には、不可解な金属粉が付着していることが私たちの分析で明らかになった。
 さらに石器に付いている使用痕ポリッシュの分析も重要である。上高森遺跡のヘラ状石器の一部には、「皮なめし」のポリッシュがある、と梶原洋氏がコメントしたと仄聞している。しかし使用痕ポリッシュが10万年単位の遺物に残ることは希ではないか、という見解もある。実際に縄文時代の遺物でも、草創期まで遡る刃部磨製石斧にはポリッシュはみられない場合があった。細石刃のポリッシュは、堤隆氏の懸命な努力でも明確ではない。
 時代の古さ、石材の特性などを考慮した事例を積み重ね、何時の時代のどんな石材にまで使用痕ポリッシュが明瞭に観察されるのか、データを集積する必要がある。
 使用痕ポリッシュの分析が行われて思うのは、たいていの石器には土中の摩耗とおぼしき均一な摩耗面が石器表面を覆っている。これを常識的に考えると、石器表面は土の中でも摩耗するため、数十万年単位の石器に人為的摩耗痕跡は自然の営力によって消されてしまうことが考えられる。梶原洋氏の上高森遺跡の石器に「皮なめし加工」の使用痕ポリッシュがあるのは、梶原氏のこれまでの分析力からして間違いのないところであろう。だとすれば、原人石器に使用痕ポリッシュが残ることこそが、ねつ造の証拠のひとつにもなるのではないか。

型式学的な検証
型式学の方法
 型式学という方法が、今までの石器の考古学で蓄積された最もオーソドックスな手法である。にもかかわらず、この方法で縄文石器と数万年前以前の石器の区別ができないという事態こそが問題である。この場合、従来の型式学と言われる方法は、考古学的に無力であり、捨て去られるべき方法である、と結論される。従来の型式学的方法を述べても紙面ばかりがかさみ、生産的な議論にならないので、ここでは現時点で最も有効と思われる石器の型式論について述べることにする。
そこで、ねつ造を石器からわかった竹岡俊樹氏が主張する石器型式学を、ここではやさしく解説し、さらに今後の努力目標をかかげたい。
 竹岡氏のいうには、石器の型式学とは石器の文法学である。ここに言語と石器製作の同型をみさえすれば、石器を理解する論理はそれほど難解ではない。しかし筆者の教養の限界もあるので、読者には少々の間違いをご海容願いたい。
 言語は「音素」と「単語(音素の集合)」と「文(単語の集合)」からなる。「音素」は唇と舌と喉の動作で決まる。つまり、これは純粋に身体の動作の技術である。石器を形成する剥離面は右手と左手の身体の技術で実現される。右手の技術はハンマーの種類とハンマーの動かしかたである。一方、刃先角の多様な剥離面をつくるには、ハンマーのあてどころをコントロールする必要がある。これは左手で石器の傾きをコントロールすることで実現される左手の技術である。音素の技術が身体の技術なら、石器の技術も身体の技術である(註1)。

 さて、身体の技術は多様であるものの、「文化」のなかでは「規則的」に作用している。同じ言語文化のなかに発音の個人差があっても、それは文化の規則として許容される範囲内の誤差である。剥離技術も同様、同じ剥離面が形成されながら、素材の性質やハンマーの性質、そして身体の技術などに少しずつズレがあるが、同じ文化の中ではそれらは許容範囲内の誤差である。
 
 十分に訓練された石器の考古学者は、石器を観察してこれらの属性を記述しながら、同じ剥離面とその許容範囲を、実際の石器の分析から同定してゆく。訓練の足りない研究者は誤診が多く、訓練を積めば正確な診断ができる。訓練の手法は別で議論するとして、言語の「音素」と石器の「剥離面」は同じ身体技術に属し、それを観察し、記述し、同定できることが研究の最初の手続きである。

 次に、単語は音素の集合である。つまりこれを延長すれば、剥離面の集合が単語であり、ひとつの石器には「辺」として実現されている。単語は世界の言語文化のなかで非常に恣意的で多様であるが、しかし石器については「剥離面の単語」は「同じ剥離面が連続する辺」という単位になっている。これを敷衍すれば、単語では「アイ」は異なる音素の集合である単語だが、石器では「イイ」という同じ剥離の集合がひとつの単位である。たとえばある文化の石鏃の押圧剥離を「イイ」とすれば、「イイ」で三角形が形成されている石器が、この文化の石鏃ということになる(註2)。
 さて、こうしてみると、石器の単語(同じ剥離面の形成されている辺)によって、石器という文章は形成されていることがわかる。石器の形態を分析するというのは、どんな「石器の単語(辺)」が組み合わさって文章(形態)を形成しているのか、を明らかにすることである。

 そこで、次に石器の文法について触れてみたい。石器には様々な種類があるので、ここでは刃先をもつ打製石器、特に彫刻刀形石器を取り上げてその辺の構成の分析について例をあげてみよう。
 彫刻刀形石器は、ファシットもしくは樋状剥離(といじょうはくり・ひじょうはくり)と呼ばれる二次加工で定義される。ファシットという加工は、素材剥片の側辺を形成するように剥離された細長い加工のことである。これまで彫刻刀形石器は、ファシットの有無で区別され、次にすぐにその形態の分類が行われたり、刃先角について論じられてきた。そうした個別文化の彫刻刀形石器について、ここでは以下のような分析方法を提示しよう。
 まず、ファシットのある石器を選びだす。次にその石器の縁辺を観察し、細かい刃こぼれの付き方を観察する。実測図があるならば、そこに範囲を記入する。刃こぼれの位置に規則性があれば、そこを刃部と認定する(註3)。次に、ファシットの位置と刃部の位置の関係を分析する。
 分析にあたっての指標を述べておこう。ファシットそのものが刃部となる剥離を用格(V)と呼ぼう。また別の辺、たとえば素材の鋭い辺と組み合わさって刃部を形成する比較的小さなファシットの剥離を(v)と呼ぼう。次に刃先角の鈍い(急角度の)ファシットによって石器の形態が形成されているときは、その剥離を主格(S)と呼ぼう。これも違う剥離と組み合わさっている場合は(s)とでも呼称しよう。また、用格のファシットのための打面を形成するファシットもある。これを準備格(P)としよう。準備格がさらなる打面調整をされていたら、打面調整と組み合わさるファシットを(p)としよう。

 さて、ファシットそのものは、実は石刃剥離の技術と全く同じである(竹岡俊樹著『石器研究法』P100参照)。ゆえに、目的的剥片(その剥片が石器の素材になるか、もしくは刃器として石器そのものになる剥片のこと)の剥離にも用いられるので、大きな石刃の側辺から小さな石刃を剥離した痕跡もファシットである。こうした場合を目的格(O)としよう。

以上のようにファシットという特定の剥離面について、その役割を記述することができた。あとは実際の石器文化の石器を観察して、石器の文法を導くのである。

 ある石器文化には、ファシットといえば用格だけであり、ファシットは特定の彫刻刀形石器だけの製作に用いられる。一方別の文化では、用格のファシットだけでなく主格、準備格、補助各、さらに目的格までももつ石刃石器群であったとする。ふたつの文化には同じようにみえる単語(ファシットの辺)があるものの、明らかに文法が違うことが理解できるだろう。
 こうした文法的な理解ができなければ、石器の剥離面の切り合い関係などをいくら積み重ねても明らかになることはほとんどない。それはねつ造事件を介した今までの石器の考古学で実証済みではないか。 

型式学的方法の今後の努力方向
 石器の考古学は医療との比較で良く理解できる。医療では患者を診断する技術がなければ、なすすべはない。聴診器をあてる技術、注射の技術、薬の投与技術など多様な技術があり、その技術は人体の物理化学的構造をよく理解して組み立てられている。石器の考古学も石器を観察し記述する技術が必要であるし、その技術は、石の物理的構造を理解して組み立てられなければならない。 押圧剥離の剥離面と加撃による剥離面では、ハンマーにかかるエネルギーが相当違い、それは打点とその周囲に明瞭に現れてくる。石器の縁に定規をあててみればよい。そこには打面の厚みがでるだろう。打点の間隔が規則的で、なおかつ打面の厚みが2o?3oしかない剥離面を、目視と右手の加撃によって石器の器体の奥にまで薄く伸ばすことが身体の技術で可能だろうか?押圧剥離か否かというのは、ハンマーの種類がソフトハンマー、ハードハンマーという議論以前に、身体の技術として考えなくてはいけない問題である。
 
 今後は、まず物理的な理解、次に条件を整えた実験で理論との誤差を明らかにしながら剥離面を同定する訓練を積み、実際の石器の剥離面を観察し、剥離面を同定していかなければならない。ちなみに物理的理解の伴わない素朴な剥離実験が型式学的にほとんど意味をなさないことは、上記の会津のシンポでソフトハンマーでも押圧剥離に似た剥離面ができるという発言で証明されたと考えている。
さて、石器の考古学は、石の割れ方という物理的現象でまず理解をしなければならない、ということが最初の課題である。次にそれができたら、さらに重要な課題がある。
 その石器群がどのような役割の剥離面で、どんな形態を形成しているのかという内容を明らかにし、さらにその内容を歴史的な分析(つまり一つの遺跡に同様の分析を行う、広い時代と地域の分析を積み重ねる分析)を行わなければならない。

 上記のように、ねつ造発覚後、前期旧石器時代にも押圧剥離はあるかもしれない、などという反論もあるが、その押圧剥離が縄文文化の中にある押圧剥離と同じ剥離技術で形成されていたら、これはただ事ではないと診断しなくてはいけない。ナイフ形石器文化の時代には縄文文化の押圧剥離技術は石器にみあたらないのだから、何故数十万年以前の石器と縄文文化の押圧剥離技術が同じでなければならないのか、そこに最大の関心がいかなくてはならないのだ。

 
 以上のように、まず行われなければならないことは、ねつ造石器の型式学的検討であり、同じ分析を発掘された資料すべてに行うことである。そして、今このときでも、どこかで縄文石器の整理作業は行われている。すみやかに、石器という石器が型式学的方法をもって整理・研究されるシステムをつくらねばならないだろう。

註1)実際には、身体の技術だけでは石器はできない。石器づくりには、道具となる素材を認知し選択する技術、素材やデザインを認知し選択する能力など、文化の規則の多様な面が含まれている。

註2:「石鏃」とか「打製石斧」は器種と呼ばれるが、これは私たちが特定の石器を他の石器と区別するためにつけた恣意的な名称のことである。当時の文化の中での名称はすでに消え去っているが、私たちにとって重要なことは、自分達の言語で過去の内容を記述することである。

 註3)実際の刃こぼれ(マイクロフレイキング)は、低倍率の顕微鏡で観察することが必要である。最低でも10倍程度のルーペ観察が必要である。力学的要因と刃先の属性の一定性にある一貫性があれば、それは特定の動作に特定の対象物をあてた証拠であり、刃部を推定した根拠になる。こうした分析例も積み重ねる必要がある。




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